大正12年1月、第一幹線水路、大正13年1月、第二幹線水路がそれぞれ着工されました。

大谷川の岩を掘り抜くトンネル工事が大変で、又次郎は轟滝から取水し、小型発電所を建設し、我が国で初めて電気削岩機を使用しました。

工事は、8台の削岩機を使い、2交代で昼夜徹してトンネルを掘り進みました。工事現場には1日800人の人夫を投入し、50ヶ所の随道(トンネル)を同時に着手して、1ヶ月30万本のダイナマイトを使用した。

当時は道路も狭く、竹田から柏原まで五里の道はどうにか馬車の通行が出来たが、それから先は馬の背だけが唯一の交通手段だった。

米塩はもとより野菜に至るまで7里半(30km)の道を竹田まで行かねばならず、漬物類はわざわざ大分に買いに行ったという。

大正13年7月、第一幹線水路11km余が完成し、柏原村の62町歩が開田され、翌大正14年12月には第一幹線水路の大部分が完成し、荻村の160町歩が開田され、さらに大正15年5月には全線通水され、378町歩が開田されました。

中央列右より3人目が垣田幾馬

♦工事概要♦
第一幹線水路 ・・・・・・・・・・・ 17,640m
第二幹線水路 ・・・・・・・・・・・ 11,316m
畑地の水田化 ・・・・・・・・・・・ 700ha
水 路 延 長 ・・・・・・・・・・・ 190km
ト ン ネ ル ・・・・・・・・・・・ 171ヶ所
架      樋 ・・・・・・・・・・・ 7ヶ所
サ イ フ ォ ン ・・・・・・・・・・・ 5ヶ所
暗      渠 ・・・・・・・・・・・ 103ヶ所
貯  水  池 ・・・・・・・・・・・ 3ヶ所
総工費(完了時) ・・・・・・・・・・・ 300万円

「ジャックハンマー」使用の光景

大正15年11月7日、新しく出来上がった組合事務所庁舎の竣工式も兼ねて、通水式を事務所前で盛大に行った。

幾馬は、ほぼ完成の見通しがついた大正14年(1925)組合長を矢野又次郎に譲って勇退していた。

式には羽織袴でタケ夫人を伴い出席し、谷を渡り山をくぐって来た泥水を水路に飛び降りて両手ですくって喜んだという。

親子二代40年の長い苦闘の実が結んだ瞬間でした。

工事の様子

盛大に行われた竣工式の風景

中央では祝賀の獅子舞が演じられている

電線を直結して働かせる「電動削岩機」使用の光景

竣工式

その後の幾馬

幾馬は、農民からは工事費以外の費用はまったく徴収せず、大正9年(1920)頃までの組合の借入れ金のすべてに私財をあてました。

このため、財産の田畑、山林原野もすべて人手に渡り、昭和3年ついに垣田家は破産の宣告を受けました。

昭和7年1月、彼は病に倒れ、わずかに残った田の水利負担金さへも払えなかった。

昭和9年(1934)9月19日、66歳でこの世を去りました。

最前列右から3人目・・・垣田幾馬

最前列右から7人目・・・帝国耕地協会長 堀田伯爵

最前列右から6人目・・・農林省耕地課長有働博士

大変な苦労をして荻の大地に水を導き、水田を作った垣田幾馬。

彼の功績はみんなの心の中に生き続けています。

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