柏原、荻は三原(柏原・恵良原・葎原)と言って、江戸時代から明治にかけて、村内を流れる大谷川、岩戸川、滝水川の川沿いに僅かに田んぼがあるだけで、土地は畑と山林原野で、村人は火山灰土のやせた土地に陸稲、とうもろこし、大豆、菜種等を作って生活していたから暮らしはとても貧しかった。

田んぼを造るため水を引くにも、田んぼより川が低く、人や家畜の飲み水さえ、谷底から牛馬の背か、人の肩によって担ぎあげるか、深い井戸を掘るほか方法がなかったのです。

幾馬の父小八郎は、そな村人の様子を見かねて、荻町に水を引く「井路」を建設することを決意しました。

井路を建設するには莫大な費用がかかります。まず、小八郎は政府に援助を求めに行きました。
ところが、「政府は出来たばかりで財政がなく援助が出来ない」と断られてしまったのです。

明治12年。小八郎は、同じく大野川上流から水を引く計画を持つ高城村の工藤祐鎮と出会います。

明治23年(1890)知事に普通水利組合設立を願い、翌年許可を受け、着工のはずだったがなかなか請負者が決まらず、
決まっても工事費の工面が出来ず、着工出来ませんでした。

工事は中止となり、明治45年(1912)、小八郎は井路の完成を見る事なくこの世を去りました。

昔の柏原、荻

水はなく生育は不安定であった。

父、小八郎の決意
父の志を継いだ幾馬は、荻村長の後藤哲彦と再三協議を重ね直入郡長の小野秀胤の援助をうけて明治41年(1908)、
県に支援を願い、翌41年1月より野田洪喜主任技師による測量が始まり43年12月に全線の測量を終えました。

明治45年(1912)柏原荻耕地整理組合の設立を県に申請し、村長を辞して、その熱意が実り大正3年(1914)に設立許可がおりました。

翌4年1月24日、柏原小学校での柏原荻耕地整理組合の設立総会で、組合長に後藤哲彦、副組合長に垣田幾馬らが選ばれました。

その後、水源地となる熊本県野尻村から水利権を得て、大分、熊本両県の水使用並びに工事施工許可の取得等を進めていたが、肝心の資金調達が思うように進まず7年の歳月が去っていきました。
垣田幾馬の決意

金策に走り回っていた頃、幾馬は開削事業に深い理解と経験を有する広島県尾道市出身の矢野又次郎に出会います。

大正10年3月、熊本で会い、大事業の経緯と現状を話して協力を求めました。

矢野又次郎は大いに共鳴し、調査を行い工事を引き受けてくれました。

難関であった資金調達も、その苦労が実を結んで目途がつき、大正11年(1922)10月14日、起工式が柏原小学校で盛大に挙行されました。

矢野又次郎との出会い
次は、当時の工事の様子を紹介します!!

※ クリックすると大きな画像を見ることが出来ます。